地球も人もまわっている

私が歩く。あなたも歩く。トコトコ・・・いつまでも止まることなく歩き続けていれば、またきっとどこかで会える、かも。

6年前のある日、MexicoのAlamosというとても美しい街を訪れた。
観光マップにも載っていないその街へなぜ長時間のバスに揺られてまで行こうと思ったのかは全く覚えていない。

アンテナが体から自由に四方八方に伸びていて、どんな電波も気持ちよく自分の中に入れたり通り過ぎるのを楽しんだりできるときには、自分の前にいつの間にか素朴だけれどきちんとしたレールが敷かれていて、気が付くと列車に飛び乗っていることってないですか?
きっと目的地なんてどこでもいいのだと思う。

公園前の角に佇むカフェレストラン。外に置かれたテーブルには、きちんとタバスコやチリソースが並べてある。
オレンジジュースを持って来てくれた女性は、「あなた日本人?珍しいね、この街に来るなんて。でも、そういえばこの街には月に1回、日本人のフライング・ドクターがやってくるのよ。先月は来なかったけど、今月は来るかしら・・・?」と言い残し去って行った。「フライング Flying・ドクター Doctor ?」。もっと詳しく聞きたかったが、私のスペイン語力ではここまで聞くのがやっとだった。

その夜、食事を終えモーテルに戻るとロビーが盛り上がっている。
一人の男性がこちらを振り向く。「む?」と思っていると、「ニホンジンデスカ?」と聞かれた。外見はどうみても日本のおじいちゃんだが、日本語はたどたどしく可愛らしい。「はい。」と答えると、いきなりぎゅうっと抱きつかれ「さあ、私たちと一緒に夕食を食べに行きましょう!」満面のにこにこ顔。そんな笑顔で言われたら断れません。
部屋にも戻らず、今食べてきたことも忘れ、そのまま街へ戻った。

少し脱線。
このとき「この人だいじょうぶかな?」という考えは全くなかった。女一人旅が長くなると、過信しているかもしれないが、なんとなくその辺の勘は鍛えられていく。

女性バックパッカーに出会うと、どの国の女性も声を合わせて言うのは、「女一人旅で最も危険なことは、過剰な恐怖心を持つこと」ということ。それじゃなくても緊張はしている。街を歩くときには、鞄は必ず前掛けで腕でぎゅっと押さえて持つ。長距離バスに乗れば、盗られると致命的な財布や貴重品は、「盗られてもいい」用の鞄から外し別なところへ隠す。これは「メキシコ」や「メキシコ人」が危険なのではなく、この国の不安定な治安や貧困が起こさせる問題であると私は思っている。過剰すぎる心配や猜疑心はかえって人を見えにくくしてしまう危険がある。
目は口ほどに物を言う、の言葉通り、日本人と違いメキシコ人はとても分かりやすい。ちよっとヤバめの方は「おれは危険だぜ」というシグナルを強力に発信しながら歩いている。(AOさん、どうでしょう?)

とにもかくにも、私たち全部で5人(30代〜60代の男性3名を含む)は街のBar&Restaurantへ舞い戻った。日本人だと思った彼の名前は、「Ray」。ロサンジェルス育ちの日系3世。1905年に福岡で炭鉱夫をしていた祖父が、炭鉱の未来に不安を感じアメリカに船で渡った。両親もRayもLAで生まれ育ったため日本語はほとんど話せない。しかし自分が日本のルーツを持っているということに誇りを持っていた。(彼がFlying Docotorかもしれない?)と思った私は、レストランでの話をした。

Bingo!彼がその人だった。その昔、大学の薬学部を出たRayは鍼灸師の資格を取得。自らの技術を、病院などに行けないメキシコの人々にも生かせないかと思い、月に1度、1泊2日で彼はこの小さな街にロスの空港から小型セスナを操縦してやってくる。もう20年近い間!Rayと一緒にLAから来ている仲間は、彼の年下の友人たちで彼の意思に賛同しさまざまな面でサポートをしていた。
飛ぶことが活力の源となっている彼自ら、4人乗りのセスナを操縦してやって来るが、過去にパイロットを含む全員が居眠りをして気流に流されてしまい、どこに自分たちがいるのか分からなくなったことも。「だから僕たちが彼に付いているんだよ」と愉快そうに話す言葉の中に、彼への信頼感と愛情を感じた。当の本人は、「なかなかできない体験をして、君たちも楽しんでいたじゃないか。これから年を取って孫ができたとき、話して聞かせる面白い話がたくさんあった方がいいだろう。」澄まし顔で言っていたのが印象に残った。

日本で「自家用セスナ機持ち」というとたいそうなお金持ちのように思われるかもしれないが、アメリカではそんなに珍しいことではなく、高い車を買ったつもりで購入をすれば、大きな保管庫がなくても、空港のレンタルパーキングに泊められる。これならアパート暮らしでも所有が可能。また、LAのような国際空港でも一般のパイロットが発着陸をすることが許可されているため、ライセンスを持っていれば夢のような話でもないようだ。

メキシコでの治療の話に戻る。
以前は、治療は主に指圧を行っていたが、風の噂で彼が「鍼治療」という、メキシカンには聞いたことも見たこともない治療法を施術できるという話になり施術の日程が組まれた。当日は20人以上も診療所に集まったそうだ。しかし、ここでRayが長くて太〜い中国式の針を取り出し、これを体に刺すんだと伝えた瞬間、人影は瞬く間に消え、20人がたった2人に。
Rayは、「正直、たった2人でも残ってくれたことがすごいと思った」言っていた。治療を受けた2人のうち1人は永い間寝たきりだったが、Rayの治療後立てるようになった。それからは信頼を得て、現在は問題なく行われているそうだ。あのメキシコ人だらけの小さな街でRayのジョークを聞きながら、緊張をして鍼治療を受けるメキシコ人・・・考えただけで楽しい気持ちになる。ちなみに、一般的には日本式と中国式の針があり、日本式のものは細くて痛みも少ないが、効果も中国式より抑え目だということで、アメリカでは中国式の太い針が主流らしい。

小さな街だが数あるモーテルの中で偶然同じ場所に泊まり、ほんの短い出会いの中で、私の心に大きな足跡を残していった。

そして2005年3月11日。6年ぶりにRayに再会。彼は70歳になっていた。
あの日と同じきれいなBlueのジャンパーを着て笑っていた。
13:50「新潟駅にいる」と連絡をもらい慌ててかけつける。突然の出現。そしてやっぱり最初は強力なハグ。息子さんのChrisも一緒。
お昼を食べて、ドライブをして、お話をして・・・と過ごしていたらあっという間に19:00。
「どこに泊まりますか?」
「これから東京に帰る。あしたLAに帰るので。」
「・ ・ ・ 。?!」

昨夜日本に着いたばかりで、明日アメリカに帰る。
詳細を聞いてみると、Chrisが米系航空会社に働いているのでいつでも無料チケットが(スタンバイですが)取れるそうだ。去年は、スイスまで日帰りでチーズフォンデューを食べに行ったそう。いくら無料チケットでもこんな風に使う人もなかなかいないと思う。

いつの日か、彼は日本に終の住処を建てて暮らしたいと語って帰って行った。彼が住めば、この国はきっと変わるに違いがない。

楽しい一日を過ごした日の夜。
「でもやっぱり誰にでも平等に最後の日はやってくる」、とひねくれ者は一人考え事。今ここに生きて出会えることへの喜びと、いつか迎える別れの両方を抱えて。「切ない」にあたる英語は無いんだって。
やっぱり私は日本人。