日々是反省。撮るということ編

以前写真セミナーでお会いした方に、古町のポストカード屋でばったり遭遇。
この方とはご縁があるのか、いろいろなところで良く出会う。

市内でも有名なポストカードショップ。広くはない店内に大きく引き伸ばされた彼の写真が数点飾られている。

他にも身近な場所で撮影されたという作品たちがポストカードフォルダーの中にたくさん、たくさん収まっていた。私の好きなちょっとアンダー気味のポジ。

一枚、そしてまた一枚とページをめくっていると横から彼の視線を感じる。「・・・(う、何か言わなくては・・・)」とちょっぴりプレッシャー。
期待に答えられるような事を言いたかったけれど、それも何だかいやらしい気がして黙々とページをめくり続ける。
彼の写真と言葉から、「彼にとって写真は日常であること。技術やテクニックにとてもこだわっていること。積極的に尊敬しているカメラマンに見てもらい指導を仰いでいること」が分かった。彼の撮影ポイントは私の近所なので本当は良く知っている場所なのだが、全く知らない場所に見えた。「これは外国ですか?」と聞いたら笑われてしまった。いつも見慣れていること、良く知っていると思うことも、自分がそう思っているだけで本当は何にも知らないのかもしれない。

ちょうどいいタイミングで、「最近は写真、撮ってるんですか?」と聞かれる。
私は正直に、「今はお休み中です。撮りたいものがないんです」。
彼はちょっとびっくりしたようす。「考えないで撮ってみたら?俺なんか何でも目に止まったものを撮ってるよ」。

そうなのかもしれない。でも今の私にとってはright answer ではない。

何も考えずに撮ってきたことで、今はそれに対して疑問を感じている・・。
大きくて重いF100を持って撮影に行くことと、210万画素ある携帯カメラを持って気軽に撮りたいものを撮ることの差が今の私には無いのだ(見かけによらず体力がないのもあるけれど)。

仕事として写真を撮ることが増えてくると「好きだから」という個人的な想いよりも、クライアントは「こう撮れば気に入ってもらえるだろう」ということを考えてシャッターを押すようになっていく。撮影の技術を上げるための本も沢山読んだ。なんだかしっくりとこなかった。
数をこなせば技術も上がると言われ、シャッターを切った時期もあった。何を撮ったか良く思い出せない膨大な紙切れが手元に残った。  捨ててしまった。

はてな? 
写真が上達するってどういうこと?

簡単に誰でもシャッターが押せるからこそ、私が本当に撮りたい物、そして写真を通してしていきたいことが分からなくなっちゃった。
便利な世の中に完璧迷子。これだからアナログ人間は困るんです。
高校生の時に初めて一眼レフを手にしてから一度も味わったことのない焦燥感。
初めて自分で現像をした日のわくわく感ははっきりと覚えているのに。

きっとこれは写真だけのことではない。私を形成する全てに対して同じようなことを感じている。曖昧にしすぎた結果は、やはり自分にかえってきた。
本当に良かった!

きちんと体中を通して考えてから次に以降するプロセスはスキップしちゃいけない。少なくとも私にはそれが向かないらしい。

「もっとゆっくりと考えがまとまるまで、大きいカメラでの撮影はお休みです」。

そんな私に彼は、「まじめだね〜。若いっていいな〜」アハハハハ!

それでいいっす。笑ってください。私も笑うしかないです。

自分の気持ちに正直になれているかと問いながら一瞬一瞬を重ねていくことが、とんでもない遠回りだとしても、新しい私への再生プロセスとしてはこの道草が何よりも大切。小さい頃は寄り道が大好きで、冒険を求めて自分から道に迷うのが好きな子供だった。いつの間にか速く進むことが目的になっていたみたい。

未だにどこへ向かっているのか分からないけれど、そんなことは大きな問題ではないのだ。「そこ」へ向かう景色、出会う人、出来事を楽しんで、そして一つ一つ自分の頭で考えて体で感じて進めば、きっとどこか素敵な場所へ辿り着くはず(願望)」。
え?メルヘンチックすぎるって?
いつもの私を知っている人には、信じられないかもしれませんが、これも私の一部分なのだ。意外性って素敵でしょ?

これからも、どたばた劇場にどうぞよろしくお付き合い下さい。